ネットで調べると探索記事がたくさん存在するため、記事を書こうか迷ったくらいだが、意外にも歴史が深く、書いてるうちに膨大になってきたため公開することに。
縦に3つ連なる隧道達は一体どのような関係があるのだろうか。
目次
事前情報
大杉トンネル - Google
大福隧道 - Google
大杉トンネルは国道307号の宇治田原町奥山田にある。
また、奥山田隧道は大杉トンネルのほんの少し上、北方向にある。
名前や位置関係からもお察しの通り、大杉トンネルは数年前にできた新しいトンネルで、奥山田隧道のほうは大杉トンネルの旧隧道である。
また、奥山田隧道の上には旧奥山田第二・第三隧道がひっそりと隠れている。
なぜ新設されたかなどは後々調べようと思うが、これも地図を見ればある程度お察しいただけるだろう・・・。
ぶっちゃけるといたって普通の面白いトンネルではないのだが、建設中に訪れた経緯もあり再訪して現状を確認したかったため今回の探索が決定した。
ちなみに、Google Mapの航空写真では執筆当時ではあるが、建設中の写真が残っている。
今回の主役ではないが、大福隧道は大杉トンネルを南下ここだけ見ると南下でもないがするとある現役の隧道である。
今回はこれらの奥山田に焦点をあてて探索を行ってみる。
今回も写真貼っつけて終わりかなーと思っていたら意外にも歴史が深くまさかここまで書くことになるとはまだ思いもしなかった。
探索開始
奥山田バイパス
2020年10月14日
国道307号の奥山田バイパス南部、大杉トンネルとは逆方向から始まる。
京都府道5号及び、238号探索のついでに訪れた。
国道307号の新道はこのまま直進で、旧道は右折する。
また、奥山田バイパスは自動車のみ通行可能で歩行者や軽車両は通行禁止である。
原付は問題ないため探索する方は最低限原動機付の自動車で訪れよう。
反対側の看板からして大杉トンネルも禁止。
バイパス区間はトンネルまで高架のようになっており、山を突き抜けるように切り開かれている。
そして、バイク殺しと言われる縦溝がトンネルまでずっと続いているため、慣れていないライダーは冷や汗ものかもしれない。
カブの頃はビビっていたが、流石にもう慣れた。
さて、大杉トンネル南側坑門が見えてきた。
止まって撮影したかったが、道が道だけに流石にやめておいた。
今思えば左に止められるからちょっとくらいなら大丈夫だったかもしれないが・・・。
大杉トンネル
北側坑門へやってきた。
こちらならいいだろと思って撮影していたが、よくよく確認したらここも歩行者・軽車両共に禁止だった。
運良く交通量が少なかったためよかったが、多かったらまずかったな。
大杉トンネルはよくあるシンプルな面壁型トンネルで写真で見ると小さく感じるトンネルだが、大型車も余裕でカバーできる幅員と高さをもっている。
ちなみに、大杉トンネルよりもさらに南下すると茶屋トンネルがあるのだが、こちらも全く同じ幅と高さのトンネルなものの歩道があるため車道自体の幅員は狭くなっている。
センターラインも大杉トンネルは白だが茶屋トンネルはイエローである。
竣工年は2011年と意外にも古くてトンネル開通とバイパス開通は結構離れている。
この奥山田バイパスの開通は2019年3月24日午後3時(平成31年)となっており、およそ8年もの間が空いている。
一般国道307号奥山田バイパスの開通について
また、面白いのが大杉トンネルと茶屋トンネルは竣工年でも7年の差があるものの、ほぼ同じデザインの坑門だったりする。
トンネルごとにデザインを変えることが多いような気がするが、そうでもないのかな?
おそらく山を切り開く工事や、バイパスを作る工事のためにトンネルを先に作り、工事用トンネルとして運用していた時期があったと思われる。
これは工事中に撮影したものだが、工事現場によくあるX字のゲートクロスゲートと言うがあったためやはりここを通行していたと考えられる。
生憎ここから先の写真は撮っていないのだが、貴重な工事中の写真が掲載されているブログがあったためリンクさせていただく。
国道307号線・奥山田バイパス 【橋梁篇】
ところで、道中の高架っぽいところは確認までしていなかったが本当に高架(橋)だったらしい。
銘板もあるみたいだが、歩行者禁止のバイパスでは撮影は少々難しい。
工事中の写真がもう一枚あったためついでに比較用にペタッ。
当時はトンネル内部以外は舗装すらされておらず、ダートのままだった。
国道307号旧道へ逸れて奥山田隧道を確認しに行こう。
大杉トンネルを超えて少し進むと交差点があり、ここを右折すると旧国道へ進入できる。
この旧国道だが、地理院地図によると現在でも国道307号のままのようで、赤いラインで描かれている。
旧国道は付け替えと同時に府道へ降格するパターンがあり、近場だと国道163号の北大河原バイパスの旧道は府道82号へ降格(実際には編入)している。
国道307号の場合は県道があるわけでもないため編入できず、わざわざ府道を新設するわけにもいかなかったのだろう。
奥山田隧道
旧道は新道の新設で線形が変わったということはないため現役当時そのままの姿だ。
ここを曲がると奥山田隧道が見えてくるわけだが、この時点で既に線形が最悪である。
大杉トンネルで京都府の開通についてのレポートを貼ったが、そこでもこの道について次のように述べられている。
しょっぱなから線形不良区間を回収してしまった。
まぁ全体を通して線形不良区間なんだけども・・・。
こんなところを大型トラックがひっきりなしに走っていたのだから恐ろしいものである。
カーブを曲がるとすぐに坑門が見える。
扁額も綺麗な状態ではっきりと「奥山田隧道」と書かれている。
内部はコンクリート覆工で所々国道故の年季が感じられるが、古びた様子は感じない。
照明は天井にいくつか蛍光灯があるのみで基本的に暗い。
和束隧道はこれでもかと照明が設置されていただけにギャップを感じる(国道なのに)
竣工年を記した銘板は見つからず、隧道データベースによると1961年(昭和36年)竣工で延長が96m、幅員が5.5m、高さが4.5mらしい。
高さもさることながら、幅員が大杉トンネルよりも2m狭いため大型トラックはセンターラインを超えて走らざるを得なかった。
ちなみに、この幅員と高さは和束隧道と全く同じである。
和束隧道とでは交通量が3倍ほど多いためその分隧道内はカオスになっていたはずだ。
ちなみに、和束隧道より少し北上した和束町湯船五の瀬で計測された24時間の交通量は1,548台で、国道307号は奥山田隧道から少し北上した宇治田原町字奥山田小字政所32で計測された交通量は4,243台だったようだ。
平成27年度 道路交通センサス調査結果
反対側坑門へやってきた。
こちらには奥山田隧道の別名の扁額が掲げられているが、生憎草でどうやっても見えなかった。
トンネルの別名によると、「山谷神霊洞」と書かれているらしい。
そのまま読むと「山の谷にいる神のみたまの洞」となるが、恐らくここの山にちなんだ名前なのだと思う。
こちらにも竣工年銘板のようなものは一切なし。
再び大杉トンネルが工事中の時代に遡るが、どうやらこの時は蛍光灯ではなく、ナトリウム灯だったようだ。
いつだったかまでは覚えてないが、おそらく2017年(平成29年)くらいだったと思う。
いつ付け替えられたかわからないが、2020年10月14日までの間に蛍光灯へと切り替えられたらしい。
旧奥山田第三隧道
さて、最後に旧奥山田第三隧道を探索しておこう。
旧奥山田隧道は第一から第三と距離を置いて3つ並ぶ隧道だったらしいが、現在隧道として利用できるのは今目の前にある第三隧道のみである。
以前は分岐のすぐ入ったところをチェーンで封鎖されていたのだが、今はされていないようだ。
また、左に見える小屋のような施設はかつて区営多分奥山田区の炭焼き窯があったらしいが現在では使われている様子はない。
坑門は煉瓦ポータルでアーチだけでなくそのほかも全て煉瓦で作られている。すごい。要石だけは石だった
竣工銘板はいつも通り撮り忘れたのだが、右上にチラッと見える手持ちの高画質版では竣工年は1912年(明治45年)3月と記されている。
竣工者銘板生憎見えなかった。
探索当時から1世紀は経っているはずだがかつての威厳は今でも損なわれていなかった。
しかしながらよく管理なしにここまで綺麗に残っているものだ。
おなじみ隧道データベースでは延長96m 幅員3.8m 高さ4.5mらしく、幅員は写真でも分かる通り結構狭い。
しかしながら、現代の車両制限令にも適合する規格であり意外にもトラックに対応している。
離合は軽自動車ですら不可能だが、一台程度なら大型トラックでも通れるのかもしれない。
隧道入り口には丸太がいくつか置いてあるが、恐らく炭焼きに使われていたものだろう。
扁額も残っていて、「幽谷窃然」と刻まれていた。
幽谷は奥深い静かな谷、窃はひそかに、然はそのままという意味でおそらく合わせると「密かに残る奥深い静かな谷」といった感じだろうか。
おそらくこの地の自然を表す言葉だったのだろう。
早速入洞と行きたいところだが、帰ってから写真を見直すと全部ピンボケていた。
幸いGoProを付けていたため残っているが、画質は微妙だ・・・。一応2.7Kまで解像度上げてる
内部は素掘りで地質は砂岩のようだった。
全体的に湿気っており、地面はグジュグジュ、奥には大きな水溜りがあった。
現代のトンネルのように排水機構がないため、雨が降ると水が流れて留まってしまうのだろ。
光量が圧倒的に不足していたためバイクを水溜りのところまで失礼させていただいたが、押すだけで一苦労だった。
振り返りはピンボケせずに残っていた。
当然のことながら照明がないため、iPhoneのライトでは足元を照らす程度にしかならず、何も見えなかった。
バイクのライトも心許ないが、さすがは夜道を照らすだけはある。
実はフラッシュライトも持っていたのだが、管理不足で電池から液体が出ていた。
帰宅後にすぐにフラッシュライトをポチった。
水溜りをバシャバシャ、足を濡らしながら出口へやってきた。
バイクで行こうとも考えたが、あれは転ける。
ここまで来て気がついたが、最近まで自動車の往来があったような轍と車が止まっていたであろう跡がある。
丸太といい、おそらく林業関連で訪れる人がいるのかもしれない。
反対側は右側が崩壊しており原型はわからないものの同じく煉瓦ポータルだったことが想像できる。
残念ながら扁額は残っておらず、正式な隧道名はわからなかった。
しかしながら、2005年の探索記事から崩壊具合は大して変わっておらず、意外にも崩壊は止まっているみたいだ。
なぜか横転している廃車の奥に奥山田第二隧道の坑門がここからでもはっきりと見える。
装備の都合上藪漕ぎは断念せざるを得なくここで撤収としたが、坑門だけでも見に行けばよかった。一応望遠で撮影したがピンボケしていた
第二隧道は同じく煉瓦ポータルであったが、後にコンクリートで補強されたらしい。
その姿たるや・・・、超不気味だった。
いずれは再訪したいと思うが、第二隧道は現在貫通しておらず行き着く先は会社の敷地である。
大福隧道
水捌けの悪い靴がビショビショになり、さらにバイクはドロドロなどなどが相まってテンション微妙なまま帰路に着くことになったわけだが、最後に大福隧道を見て帰るとしよう。
大杉トンネルから南下すると、まずは「皇服嘉賞門」と書かれた隧道の別名扁額が見えてくる。
皇服は「おうぶく」と読み、おそらく大福の当て字だと思われる。
嘉賞は「かしょう」と読み、良いものとして褒め称えるという意味があり、「大福の良い隧道」といった意味になると思われる。
また、皇服は皇で王、君主などの意味があり、服は身に着ける・おびるなどの意味があることから「王を纏った隧道」というようにも読むことができ、ここでも素晴らしい隧道という意味があるように思える。
皇服茶というお茶もあるそうで、そこから取ってきたのかもしれない。
竣工銘板は見つからず、隧道データベースにも記載はなかったが、おそらく奥山田隧道と同時期かあるいはそれよりも後に竣工されたものだと思われる。
幅員は奥山田隧道と同様におそらく5.5mで、高さも4.5mだと思う。
3.8mという注意書きは、最も端っこを走るとアーチ状の天井に当たるのがちょうど3.8mということなのだろう。
ちょうど大型ダンプが走っているが、この幅員ではセンターラインを超えなければ安全に通過できないのである。
大杉トンネルができたように、ここもいずれは付け替えられると思われる。
反対側はしっかりと「大福隧道」の扁額が掲げられていた。
こちらもごく一般的な面壁型トンネルで全てコンクリート覆工となっている。
ここでも3.8m注意があるが、照明の電気制御板の都合で上に取り付けられていた。
赤いラインは3.8mを表すのだと思うが、初見じゃわからんだろう。
大福隧道を超え、カーブを曲がると右手に山と怪しい広場が見えてくる。
おそらくあのあたりに第一隧道があるのだと思うが、この藪を超えていくのは無理だろ・・・。
っていうかここにあるのかすらわからない。多分この辺だろっていう憶測
ちなみに、第二隧道の出口はここにある。これも無理。
考察
帰宅後にほぼ情報がない中深く調べておられる旧道倶楽部様(奥山田新道(考察・参考文献) - 旧道倶楽部)より山田資料集へとたどり着くことができた。ただし、山田資料集は執筆当時すでに削除されているようで、Web Archiveより引用となってしまう点はご了承いただきたい。
大杉トンネルについては府の発表により全てがわかっているため考察しようがないのだが、奥山田隧道と大福隧道について少し触れてみようと思う。
宇治田原では山間部にある関係で山に関連する産業が主流だったらしい。
実際にこの地を訪れるととにかく左右山に囲まれた中走行するため、結構印象に残る。
各隧道の開通で林業に依存する必要がなくなったことも一因なのだと思う。
探索当時は知らなかったが、信楽街道という徒歩道があったようで、旧旧奥山田隧道郡及び、そこを通る新道ができるまえはその街道を通って山越えをしていたという。
なお、新道のことを奥山田新道と呼ぶ。
その信楽街道は現在でも線形が残っていて、観光ツアーなんかもやっているらしい。
その線形の一部、湯屋谷石詰から奥山田上川までをプロットしたしたものが右の地図だ。
現在ではほぼ舗装路となっているが、緑の丸で挟まれた「松峠」区間は現在でも山間部を通る徒歩用街道として残っている。
生憎私は訪れていないが、宇治田原町観光情報サイトにその様子と線形が描かれたパンフレットを見ることができる。
信楽街道~家康伊賀越えの道
現代の松峠の写真を見るだけでもそこに車を通そうとするのは相当苦労したことが容易に想像できる。
ちなみに、この当時の車とは引用にも書かれているが、自動車ではなく牛車や馬車である。
日本で自動車が大きく普及するのは大正12年以降で奥山田新道が開通してからの話である。
奥井 正俊(1988), 大正・昭和戦前期における自動車の普及過程, 新地理
奥山田木本は右上にある青丸を置いたところだが、長尾地蔵が見つからずどういった線形だったのかわからなかった。
いずれにせよ、"車"を通すには不向きな道路であったことは容易に想像できる。
さらに、信楽街道の湯屋谷へ抜ける道だけでなく、茶屋村茶屋トンネルがあるほうや和束町湯船和束隧道のあたり、小田原(恐らく滋賀県の現大石小田原町)全方向において峠や大坂があったという。
どこへ行くにも山越えが必要なのは相当苦労するだろうし、その苦労分だけ物資の価格は吊り上っていく。
日用品が高値になるのはそれだけで生活が苦しくなるはずだ。
住民にとって奥山田新道は希望の星だったに違いない。
そういった背景から奥山田新道が竣工されることとなるが、ルート決定と資金調達に苦労したようだ。
元々は本道である信楽街道及び、松峠が案として上がったようだが、湯屋谷村の協力が得られなかったために現在の廃道となってしまった奥山田新道が採用された。
ルートが決定しても山林の所有者の許可が下りず、利権絡みで難工事だったようだ。
また、京都府の補助もあったようだがそれでも不足しており寄附により資金を用意したというのだから、当時の住民の願いを強く感じられる。
いくつもの問題を解決してやっと開通した旧奥山田隧道郡であったが、後に大きな問題が発生する。
これはただの憶測に過ぎないが、旧奥山田隧道郡の建設当時は"車"が通れるようにということで計画されていたが、それを遥かに超える車格を持つ自動車が通るような計画はなかったはずだ。一応明治時代から日本に自動車自体はあったとされている
昭和中期ころ竣工の隧道でも現代の大型トラックや大型普通乗用車にとって狭いのと同じく、時代が進むにつれて道路の用途も変わってくるのである。
奥山田隧道も同じ理由で大杉トンネルへと主役の座を譲った。
そしてやはり旧奥山田隧道郡には路線バス、つまり大型車が通行していたらしい!
"車"向けの設計なのに大型車までも対応できる明治隧道すごい。
また、これら旧奥山田隧道郡は照明が一切ないため夕方以降の通行には棒を持って通行していたというのだから今からすれば驚きである。
雨漏りや凍結などの環境的な問題もあったらしく、自ずと新しい道へと期待が深まるのも致し方ない。
そして、1961年(昭和36年)に旧奥山田第二・第三隧道を付け替える奥山田隧道が竣工され、奥山田住民の期待の星だった隧道は役目を終えた。
その後旧奥山田第一隧道を付け替える大福隧道が竣工され、第一隧道も役目を終えることとなる。
今日では奥山田隧道も幅員狭小・線形不良により大杉トンネルに取って変わられ、現代の技術により奥山田バイパスまで竣工されている。奥山田隧道は主役ではなくなったもののまだ現役
ってことは旧奥山田隧道郡は正確には旧旧奥山田隧道郡になるのか・・・。
また、大福隧道についても少しながら記載があった。
Aトンネルの大福側入口に「大福隧道」と横書きのものがはめこまれている。
大杉側からみると「皇福嘉賞門」と横書きのものが入口にはめこまれている。長さ98米、昭和48年竣工。
Bトンネルを大杉谷側からみると「奥山田隧道」と横書きされている。長さ93米、昭和36年竣工。
大福隧道は延長98m、幅員5.5m(推定)で、高さ4.5m(推定)、
平成16年度道路施設現況調査(国土交通省)に基づく情報によると、1967年(昭和42年)竣工らしいのでこちらが正しいと思われる。
っていうか今も現役なのになんでこんな情報がないのか。
大福隧道は奥山田隧道よりも12年ほど後に竣工されたようで、それまでは旧奥山田第一隧道は現役だったってことか。
時期としては最も後に廃止されたはずの第一隧道が第一に荒廃しているというのはなんとも皮肉な最期である。